2011年5月29日日曜日

緑の街に舞い降りて……6月の花嫁

【今日の一言】
B女史は、今も大活躍です。


風薫る五月もそろそろ終わり。
関東甲信越地方も梅雨入りをしました。

この季節になるとどうしても思い出す話があります。
以前、別のブログでアップしたお話ですが、もう一度アップします。

松任谷由実の「緑の街に舞い降りて」という曲が僕は好きなのですが、
その曲にまつわるおはなしです。

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「6月の花嫁」
僕は30代の半ばまで、鎌倉に住んでいた。
その頃、よく通ったお店があった。
若宮大路の一の鳥居の側にあるバー。ほとんどの金曜日の22時を過ぎてからは、僕はそのカウンターで数時間を過ごした。
その夜は、友人B(女性!)と二人でお酒を飲んでいた。残念ながらガールフレンドではなく、本当の酒飲み友達だった。

そしてその夜は、当時僕が勤めていた会社のM氏も、23時を過ぎた頃、その席に加わった。
僕の左隣に座ったM氏は、複雑な名前のカクテルを飲みながら、独白を始めた。
「僕は、彼女と賭けをしたんだよ」
僕とB女史は、まずは適当なところで相づちを打つことからはじめた。

………

Mが、その女性に会ったのは、その時からさらに2年前のこと。
場所は、松任谷由実が「緑の街に舞い降りて」で、名前の響きがロシア語のようだった、と歌っている街だった。

Mは、テレビ番組を作る仕事で、その街の放送局を訪れた。
そして……その放送局の女性ディレクターと恋に落ちた、会って3秒後に恋に落ちたらしい。
彼女のことは、名前のイニシャルからYとしておこう。
Mの気持ちは、3秒後からYに釘付け。打ち合わせも上の空。
打ち合わせの後の、お決まりの会食とオフィシャルな2次会が終わったら、Mは猛烈にYを誘った。そこは押しの一手。自分が宿泊しているホテルのバーまで連れ出した。そのバーの営業終了は朝の5時。

何と、Mは、Yにプロポーズをした。
驚くことに、YもMに一目惚れをしたらしい。
(そりゃそうだ、いくらMの押しが強くても、一目惚れくらいしていないと、ホテルのバーで朝まで一緒に飲まないって)

そして彼女の答えは
「ありがとう。すごく嬉しい。今日はじめてあったのに、私もあなたが大好きになっちゃった」

あまりにも嬉しいその答えに、Mが彼女を抱きしめようとした瞬間、
どうしたことか、彼女は、突然泣き出した。

「どうして1週間早く来てくれなかったの」
彼女はちょうど1週間前に、会社の同僚と結婚する約束をしてしまったのだ。

その相手は同期の番組ディレクターで、数年間結婚してくれ、と迫られつづけていたそうだ。
彼に対して恋をしているわけではなかったが、家族から早く結婚しろ、と言われていたのと、26歳でもう行き遅れている(26歳で!? 20年前の話しだけど、その当時でも、26歳はまだまだ若い年齢だった。おそらく地方性の問題だろう)と思っていたことで、彼の長年のプロポーズに首を縦に振ってしまったのだ。
そして、わずか1週間後に、Mという運命の男性に会ってしまったのだ。

MとYは、会ったその日に、恋に落ちてしまった。激しく、深く。しかし彼女には、結婚を約束した相手がいた。

それからが大変だった。

彼は「そんな嘘の結婚は止めてしまえ」と言う。彼女は「そうしたい。そうする。でも、いい人なの、どうしよう」と悩む。結婚を約束したかれのお父さんは、その街の市長でいわゆるセレブ。そのことも彼女を悩ました。迷惑がかかる……。

しかし、恋はさらに深くなった。ロシア語みたいな名前の街には大きなスキー場があった。彼は、雪が降ったと聞くと、夜行寝台に飛び乗った。雪で滑る道を、体を寄せて歩いた。
上野発の夜行列車だ。

夏になったら、彼女がMを訪ねてきた。当時Mは、僕のアパートの近所に住んでいた。夏のビーチに、僕と僕のガールフレンドと、Mとその彼女の4人がデッキチェアーに並んで横になり、太陽と遊んだ。

夏が過ぎて、秋がきて、そして、その街は再びスキーシーズンを迎えた。
12月、雪がどっさりと降った日。その日は両家の結納の予定日だった。僕の友人は、ロシア語みたいな名前の街にホテルの部屋を取り、彼女を監禁した。彼女は「行きたくない、ここにいたい」といいながら、仕事に行くように、数時間で結納を済ませて、また部屋に帰ってきた。
いったい、女という生き物は、よくわからない。

春がきて、東京より一月遅い桜が咲いた。結婚式が、1ヶ月後に迫ってきたある日のことである。彼と彼女は、その街の近くで活躍した童話作家の作品の名前がついた喫茶店で、最後の話し合いをした。
「君はこのまま、結婚するつもりか」「したくない」「でも、このままじゃ、ずるずる結婚しちゃうぜ」「そんなことは無いと思うけど……」
そして最後に彼女は、彼に言った。
「あなたが結婚式場に、私を奪いに来て。ダスティン・ホフマンになって。私、あなたに賭ける。私を賭ける」
彼女の結婚式は、その街の山上のあるホテル。朝10:00。その街の山の上にあるホテルの式場。当日の朝、上野を早い新幹線で発ってもギリギリ間に合ったが、Mは安全策をとった。前の晩の上野発の夜行寝台に乗れば、朝の7時過ぎにその街に着く。
その夜行寝台は、冬に彼女に会いに行った時、何度も乗った列車だった。
朝の7時にその街に着いたら、そのためだけに予約したホテルでシャワーを浴びて、ダスティン・ホフマンになる準備をする。そして、タクシーで山の上のホテルに駆けつけて、彼女を奪いに行く。
Mの計画は完璧だった。

ただし彼女の結婚式が、スキーシーズンに行われたのであれば。

結婚式は6月。その夜行列車は、スキーの季節しか、ロシア語みたいな街を通らない。6月は、もう1本、海沿いの路線を走るのだ。


6月の花嫁は、幸せになるという。彼女は、今、幸せなのだろうか。

Mの話は、それで終わり。
彼は、それからしばらく、宮沢賢治の童話が読めなくなり、ダスティン・ホフマンの映画が見れなくなったということだ。

僕とB女史は、その話しで、その晩は随分盛り上がった。いつもは自分からは会話に割り込んでこないバーテンも、何回か絡んできた。
「早く忘れようぜ、落ち込んでも仕方ないんだから」と僕が言う。
「そうだそうだ、忘れろ忘れろ」とB女史があおる。
「そうだな、忘れることにするよ」
「忘れろ、忘れろ、かんぱーい」さらにB女史が続けた。
この話には別の後日譚がある。

Mに、その話は忘れろ、と強く主張したB女史。
数ヶ月後に彼女は、僕の友人の恋愛話を題材にして、小説を発表した。B女史が直木賞を受賞したのはその発表から、数ヶ月後のことだった。
Bが受賞した数日後、そのバーに3人で集まって、お祝いをした。もちろん宮沢賢治とダスティンホフマンの話は、禁句。

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2011年1月9日日曜日

遙かなるヴェネチア。カルチョの国で、見果てぬ夢を。

【今日の一言】
また行こうっと。



このブログでご紹介するのは、以前にアップした文章の中で、評判がよかったものを紹介しています。

先ずは、4年前の夏、家族でイタリア旅行をしたときの旅行記から掲載します。

イタリア旅行、本当に楽しかったです。その思いでの中からワンエピソード。

題して

【遙かなるヴェネチア。カルチョの国で、見果てぬ夢を】



8月の上旬、イタリアに行った。

飛行機で北極圏を通りアルプス超をしてミラノに入った。

ミラノでは、ドゥオーモを正面に見るクラシカルなホテルに一泊。次の日にはユーロスターでヴェネチアに移動。その後、フィレンツェ、ローマと訪れた。

今日お話するのは、ヴェニスに滞在して3日目の夕方の出来事だ。





宿泊していたホテルの前は、大運河。河岸に立つと、向こうに、夕日に染まる教会の大きなドームが見える。運河は夏の夕日を斜めに照り返し、キラリキラリと輝き返してくる。

時が止まる瞬間とは、こういうことだろう。神様が微笑んでいるような景色だった。

夕食まではまだ時間があり、のんびり運河でも眺めながら、テラスでアイスティーでも飲もうとホテルの部屋から出てきたのだが、その時間に眺めた教会があまりにも美しく、渡し舟に乗って礼拝に行くことにした。

手漕ぎの舟に乗ると、また新しい景色が見えてくる。夏のヴェネチアの夕日が運河に映り、河の中の光は渡し舟と太陽を結ぶ光る道になる。太陽まで歩いていけるような錯覚に、一瞬とらわれる。

時間にして数分。太陽の光を空と河に残して、舟は対岸に到着する。

教会の前には、たくさんの旅人が、石畳や階段に座って、話をしたり、川面を見つめたりして、至福の時間を過ごしていた。私も、彼らも時を忘れながらも、時を惜しむ旅人の一人だ。

教会の中に入った。ほんの少しだけ湿り気のある空気の中に、静謐が溢れていた。聖水をつけた右手で十字を切り、神に感謝をささげる。私はキリスト教徒ではないが、神に世界の平和を願う気持ちは、届くと信じる。

祈りを終えた後、壁画や彫刻を鑑賞していると、後から声を掛けてくる人がいる。振り向くとイタリア人であろう。17,8歳くらいの少年が立っていた。金色の髪を短くカットし、茶色の目で、僕を見つめている。その目は、「どうしても知りたいことがある」、と言っているようだ。セリエAのACミランのロゴが入ったタンクトップからは、筋肉質の長く伸びた腕が、彼がスポーツマンであることを告げていた。




身振り手振りで、質問してくる。イタリア訛りの英語だ。僕はもともとろくに英語は喋れないので何を言っているのかよくわからなかったが、どうやら、僕の着ていた服のことを質問しているらしかった。

その時僕は、ザスパ草津のレプリカユニフォームを着ていた。彼は、そのユニフォームについて質問してきたのだ。

「それは、日本のフットボールチームのレプリカか?」
「ああ、そうだよ。J2だけどね。こっちでいうセリエBだよ」
どこまで通じたか、わからないが、僕も必死で日本語訛りの英語で返事した。何しろ大好きなザスパ草津のことを、カルチョの本場で宣伝できるのだ。

「ザスパ草津っていう名前なんだ。草津にはホットスプリングがあるんだぜ」

今思えば、伝えたいことがいっぱいあって、コメントが整理できていない。草津のことが伝えたいのか、チームのことが伝えたいのか。しかし、僕のそのコメントに対して彼は
「ああ、そのチームなら知ってるよ」と答えた。
それは嘘だろ、気を使わなくってもいいよ、と思ったが嬉しかった。何だかお互いに気持ちが触れ合った気がして、お互いの着ているものを交換しよう、ということになった。

僕には、ACミランのタンクトップは少し大きかったが、なかなかカッコよかった。と、そこへ、教会の人が向こうから急ぎ足でやってきて、壁に書いてある説明を指さして僕に何か注意しはじめた。

しまった。教会の中では、肩のでる服はNGなのだ。彼と交換したタンクトップも当然ダメ。僕は、もう少し彼と話したかったが、教会から出るしかなかった。

さて、この話はこれで終わり。

僕は、渡し舟で元の岸に戻り、まだ夕日が当たるサンマルコ広場のカフェで「旅情」のキャサリンヘップバーンのようにカフェオレを飲んだ。
そして、いつか、ACミランとザスパ草津が、世界クラブ選手権の優勝カップを争う日が来ることを、まだ透き通るような天空の青い空となんとも言われない夕日の赤を眺めながら、夢見ていた。

陣内 秀信¥ 1,000